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母の日...かも?

mothers_day今日は母の日です。
わが家は先行ですでに先週お食事会を終了しまたので今週はそれなにり。
暖かくなってきたお陰でお片づけに勢いがつき、ようやくいらないペーパー類を捨て始めた私です。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、部屋がすっきりした感じです。
やはり解放的な気候になると家の中の汚れが目立ってくるこの頃ですね。
母の日は済ませたものの、ママンの罠にはまって週末前もお寿司を食べに行くことになったのですけど。
ママンの息子である夫はそれくらいどうってことないよ、と言いますが、客観的に見てとっても危険です。

こういう話題になると、ちょっとネガティブな空気のわたくしかも...苦い想いってそんな雰囲気なのよね。

ママはママンを演じる事で嬉しくてエネルギー全開ですから。
世間一般的にいうところのよくできた姑を演じられる幸せ、わかってますか?デスね。
子供はペットでもなければ親のニーズを満たす道具ではない、というのを実の親の行動も含め十分に経験しているわたくしです。 

母親が子供にかけるエネルギーの一部はこう言っています...
「ママが見てなければまだだめだわ。 がんばりなさぁ~い」と。
またはママは自分が応援して支えているつもりなんですね。
それって一見愛情ですが、本当は子供の本質的な部分の持つ資質を阻害していることが多いのです。
ああ、ようやくママが覆っていたエネルギーを打ち破って自分の本当の資質に向かっていこうとしているのに、またか、てな感じで送り出されてくるママエネルギーをそういう風に観察しているのは私だけ?
そしていつまでも親がしゃしゃり出てくるような関係は成長があまり見られません。
親から一旦巣立たなければ家庭の絆がどうしても薄くなってくる現代社会です。
そうしていかなければ、新たな人間関係が築いていけないからです。
その質については今は言及しませんが。
もちろん今ここを読んでいる方にひとつ先に理解していただきたいのは、親にまったくの感謝の気持ちがなくて書いているのではない、ということなのです。
これはその部分とはまったく違うことなのです。

親は人生におけるひとつの役割で、そこから離れるとひとりの人間として、また生きていかなくてはならない。
人は生まれるときもひとり、死ぬときもひとりです。
それは周囲に暖かい人たちがいたとしても変わらない事実です。
そうして、生まれてきたという事実を心のどこかでいつも感謝していれば、あえて母の日に感謝、としなくても、十分でしょうと思うくらいです。

今親をやっている人たちは将来母の日がなくても子供に感謝してもらえるような親に”自然に”なっていけるでしょうか。 
それとも親という立場を押し付けなければ感謝もされないような親でしかないような存在になるのでしょうか。
いろいろ問われる現代です。 
たとえ言葉やニュースのトピックにとりあげられなくても、です。
(取り上げられるようではすでに手遅れ)

わが家には子供はいません。
それは選択の範囲です。
子供という立場を十二分に味わったので、そこを超えてまで自分たちが親になりたい、子供をこの世に送り出したい、とは思えなかったのです。 
まぁ私たちが親を手玉に取るほど人生に長けてなかった、ということもあるのですけれどね。

私個人は自分の興味とそれを現実的レベルで形にしたときに、人のからだと心に関する業種に足を突っ込んでいるので、こんな風に現実を見てしまうのですけれど。
本当に人間という動物は奥が深いものです。

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